はじめまして、娘です。
しばらく母はブログ更新していなかったようですね。
このブログは私は母のために準備して、母が書いていたものになります。
今の状況を忘れないために。
そして同じく乳がんでつらい方やそのご家族の方のために。
私も辛い現実を今目の当たりにしている状況ですが残すために書きます。
とても厳しい内容です。
読むのが辛い方はここまでで良いと思います。
(ちなみにこのブログは独自ドメインで有料版で記載していましたが
2025年7月には無料版になるためURLは変わるものと思いますのでご了承ください。)
母はずっとエンハーツの抗がん剤治療を行っていました。
脳転移を起こしていましたがうまくコントロールできていました。
頭から下はエンハーツがよく聞いていたようですが脳のほうが厄介でした。
過去の記事は読めていませんが、脳腫瘍が大きくなってきた時にはガンマナイフを行っています。
脳腫瘍の影響で左足に影響があり、歩き方にも影響が出てきていました。
エンハーツとガンマナイフを行っていましたが、2023年12月の今から1年前、
脳の同じ部位から再発の疑いとなりました。
先生との相談の上、外科手術にて摘出手術を行いました。
腫瘍は運動野にかかっているため摘出手術を行うリスクと、そのままにするリスクだとそのままの方がリスクが高いためです。
手術は無事終了しましたが麻痺は残りました。
しかし母は負けず嫌いなところもあるのでリハビリ病院へ転院後はリハビリに励みました。
術後の動けなかった時が嘘のように、杖はありながらも自分で歩けるようになりました。
とは言え片麻痺はありますので装具をつけながら、手も少しの麻痺がありながらも生活していました。このころもエンハーツを続けていたと思います。
2024年5月、脳の同じ個所から再発しました。
この時はガンマナイフができるとのことでガンマナイフの再照射となりました。
再発ということでエンハーツが脳に効かなくなったことになります。
ガンマナイフ後は最後の抗がん剤としてACになりました。
私はACは副作用が辛い抗がん剤だよ、と何となく母から聞いていました。
確かにACは母には副作用が辛かったようです。
味覚もかなり変わり食欲も少なくなり、日常も辛いようで寝ていることが多かったです。それでも元気な時にはお出かけしたりしていました。
それでも副作用の影響、ガンの影響、どちらもあると思いますがかなり痩せていき体力がなくなっていました。
母本人も体力的にも限界がきていたようです。
初めて泣いて「病院に入れてほしい」と電話で言われました。心が締め付けられました。
2024年10月に入院。抗がん剤の効果がないということで積極的な治療を終了することとなりました。本当の終末期、緩和ケアに移行することになりました。
キーパーソンである私は主治医から余命宣告を受けました。半年もないと言われて泣きました。この時は母には伝えることができませんでした。
何気ない会話の中で母に「余命分かるなら先生から聞きたい?」と聞きました。
母は「知りたい」と言っていました。
主治医と再度話をしたときに母が自分から主治医に聞いていました。
「年を越せるかどうか」
あと3か月くらいしかないじゃん。私はそう思いました。
母なりにたくさん思うことはありながらも、
ここでは深く書きませんが残りの時間を大切に過ごすことを優先することにしました。
2024年10月、11月は抗がん剤治療をしていたときよりも元気でした。
とても3か月で。年を越せるかなんて信じられませんでした。
母本人も「今こんなに元気なのに年を越せるかって、信じられないね」って言っていて。何となく余裕持っていたような気がします。
ですが母のがんは質が悪いんですね。進行があまりにも早いです。
脳の腫瘍が入院前のMRI、入院後のMRIをくらべると明らかなスピードで広がっていました。
「家に帰るなら今しかない。悠長なことは言ってられないよ」
脳外の先生に言われ、私はすぐに在宅介護の準備を行いました。
介護ベッド、手すり、とにかくケアマネと相談して毎日バタバタ。
退院時、伝え歩きはできていましたがトイレで自分でズボンの上げ下ろしや、
トイレットペーパーをちぎることはできなくなっていました。
トイレはほぼ介助です。
私は実家に帰っていたので仕事をしながらほぼ母の介助をしていました。
夜中のトイレ介助、日中の介助。介護経験のない私は毎日がフラフラで、体力的にも厳しいと思いながらも、でも母のために動きたいと思いながらも。
板挟みの感情の中で動いていました。
そして旅行に連れていくなら今しかない。
退院後すぐに近場で旅行を予約して母を連れて家族旅行に行きました。
旅行から帰ってきた後の母は伝え歩きはできなくなっていました。部屋の中でも車椅子じゃないと移動できません。
退院後からわずか2週間いかないくらいの期間です。
あまりにも進行が速いなと感じていました。私も精一杯介助しながらも、フラフラの娘を見る母も辛かったのでしょう。
「娘ちゃんはどうしたい?」母に聞かれました。
「ママともっと一緒にいたい」今まで泣かないように頑張ってきていましたが、辛そうな母を見るのも苦しい、でも一緒にいたい。泣きながら一緒にいたいと伝えました。
でも私は心の中で「母が一番苦しまないように。母の望むことをすべて叶える」と決めました。
「じゃあ右が動く間は家にいようかな。ママはしぶといからそう簡単には死なないよ」
翌日、車椅子への移乗、座っていることも母の体力では厳しくなりました。
「もう座っていることも大変。病院に行く」母が病院を望みました。
「ママ、ごめんね」と泣きながら在宅での最後のトイレ介助をしました。
もう、この家に帰ってくることはないんだな。
そう思いながら母が再入院しました。
そして再入院してから1週間。
まだ会話はできるものの、日々脳の腫瘍が進行しているようで日々悪くなっています。
「痛い、辛い。どうしてこうなってしまっただろう」と母は苦しがっています。
見ている家族である私も毎日が辛いです。
緩和ケアなのに痛みは取れていません。
食べること、話すことが好きだった母ですが、ご飯も水も食べれない飲めない。
話すのもやっと。脳の視力障害と記憶障害も出てきています。
昨日の母は今日はいません。
それだけがんの進行がとても早いです。きれいごとは書けません。
これが現実であり、私も辛いですが恐らく本人が一番ショックで辛くて悲しいと思います。脳じゃなかったら?もっと違ったの?
私も苦しいけれど母が傷つかないように。
記憶障害も視力障害も優しく受け止めてあげよう。今の母が私の母であることに変わりはないから。
年末旅行、年明けも旅行予定でした。
おととしはコロナで。去年は入院中で。年末年始を家族で過ごしていません。
今年こそは家族で年越ししたいねって話していました。
母には辛い思いせず早く楽になってほしい気持ちと、
でも一緒にいたい気持ちと。残される家族は複雑な気持ちですね。
長くなりましたが今現在の報告として書かせていただきました。
また書きます。母が生きた証を残させてください。